教育思想と教育哲学を創造する授業分析

昨日は学会のワーキンググループに参加し、授業分析についてその具体を学ぶことができました。といっても、ある程度は想像ができていましたが、一応のプロシージャーを体感することで、想像と具体をコネクトすることができたと思います。そのコネクションにおいては、やはり若干の考えの相違があったので、それを修正できたのは非常に大きかったと思います。さらに回数を重ねていくことで(といっても早々何度もできるものでもないけれども)、疑問等が追認されると思いますが、さらなる課題が明らかになれば、それは私の授業分析をする力、そして授業改善につながるものと考えています。

 

授業分析は、授業で語られたプロトコルにしっかりと身を委ねることを通して、0ベースで仮説の創造、教育実践の理論化を目指していくことに重きを置いています。そのプロトコルの中から見えてくるものを多角的に捉えながら、浮かび上がってくるものをキャッチし、「〜なこと」が言えるのではないか、という完全帰納的な手法を取りながら理論へと押し上げていく作業を繰り返し行なっていく、というのが一連の流れです。

 

この授業分析については、時間的な効率という面では非常に苦労を要するものであることは明らかです。今回の授業モデルは小学校6年生を対象とした社会科のプロトコルでしたので、小または中学校でのそのような教科学習における可能性は非常に高いものがあると思いました。私として検討しないといけない課題は、授業分析は技能を育成する教科(体育、美術、音楽、技家、英語)において、どのような役割を果たすのかという点です。児童生徒の語りと技能は一致しない、一時間で生徒の技能は変容しない、というのが主たる構成要素です。では、そのような教科の研究授業では何が検討されるのか、授業技術だけの話になれば、そんな面白くないことはありません。そこに子どもとの対話があり、教師が生徒の考え(?)、技能を高めようとし向けていこうとする方向性についての検討をするのでしょうか。正しい方向なのかどうか(何をもって正しい方向と言えるのか?、何をすることが悪い方向となりえるのか?)って、どうやって判断するのでしょうか。英語教育について言うと、今までに前例がないことをどうして今からはこうすべきだって判断できるのでしょうか。あくまでそれは仮説であって、それが正しいという保証は全くありません。ではその仮説はどこからでてくるべきなのかと言われれば、そのリソースとして授業分析が必要になってくるべきでしょう。やはり仮説は生徒の姿を持って立てられるべきだと思います。

 

英語教育も当然ながらに含めた、教育的な考え、つまりは教育思想は誰しもが抱えているもの、抱えるべきもので、教育者であればより「確からしい」教育思想を備えておくべきだと思いますし、そのブラッシュアップのために日々研鑽すべきでしょう。ただ、教育思想はあくまで「考え」であって、それが正しいということはないですよね。教育思想は、「自分の」考えかもしれませんし、「誰かの考えが受け売り」になっている状態のものかもしれません。ということはつまりそれって誰しもができること、です。私が教育思想について問われるべきことは、自分が持つ「思想」(なるもの)を、本気で、具体化し、対立する思想を明らかにしながら、子どもに(そして教育社会に)還元していくことであると考えます。

 

教育哲学について学びを深めていくと、それはさらに深いところに存在するものであることが明らかになってきます。私の「教育哲学」などとつい言ってしまうことがありますが、それはいささか勘違いも甚だしいものだと反省します。宇佐美寛は(著書を読むだけで背筋が凍りつきます)教育哲学(教育思想)について次のように述べています。

 

 

教育哲学

教育哲学

 

 

教育思想は、単なる祖述・紹介という受け売りである場合も、自分の作った思想である場合も教育哲学ではない。

 

哲学の生命は、疑い・批判である。自分自身の思考に対してでさえ、疑い・批判を加えるべきなのである。例えば、自ら次のように考えるのである。「待てよ。」「いや、これは間違っているかも知れない。」「ここから先の論理は不確実なすいろんになる。それをそのまま、わかっているかのように述べるのは、はったりだ。」

 

哲学とは、学問的方法なのである。自・他の思想に対する疑い・批判の方法が哲学なのである。

 

これだけでも、日ごろ考えていることに身につまされるのと同時に、哲学する思考がいかに大切なのかを感じます。宇佐美の著書にあるように、いかに優れたように見える教育思想も、ただ単にそれを受け売るのではなく、その中にある、いわゆるミッシングリンクを見つけること、思想を疑ってみること、建設的に批判を加えること、あらたな発見を提示すること、を継続していくことが教育における実践では求められるのだと痛感しています。

 

教育思想は教育哲学へとメタ的に検討していくプロセスとしての授業分析という位置づけは可能なのではないかと考えます。それは授業分析が辿ろうとしているプロシージャーから明らかになるもの(授業観察を通した視覚的感覚的でないもの)は、教育思想に対する基礎的な研究に位置付き、高次の教育思想、教育哲学へとプロセスされるものと考えるからです。

 

英語における教育思想はさまざまに多様化しておりchaosな状況にありますが、その中で真に正しいことを探求する姿勢こそ(思想の具体化に加えて)、教師として求められるのかもしれません。