教育思想と教育哲学を創造する授業分析

昨日は学会のワーキンググループに参加し、授業分析についてその具体を学ぶことができました。といっても、ある程度は想像ができていましたが、一応のプロシージャーを体感することで、想像と具体をコネクトすることができたと思います。そのコネクションにおいては、やはり若干の考えの相違があったので、それを修正できたのは非常に大きかったと思います。さらに回数を重ねていくことで(といっても早々何度もできるものでもないけれども)、疑問等が追認されると思いますが、さらなる課題が明らかになれば、それは私の授業分析をする力、そして授業改善につながるものと考えています。

 

授業分析は、授業で語られたプロトコルにしっかりと身を委ねることを通して、0ベースで仮説の創造、教育実践の理論化を目指していくことに重きを置いています。そのプロトコルの中から見えてくるものを多角的に捉えながら、浮かび上がってくるものをキャッチし、「〜なこと」が言えるのではないか、という完全帰納的な手法を取りながら理論へと押し上げていく作業を繰り返し行なっていく、というのが一連の流れです。

 

この授業分析については、時間的な効率という面では非常に苦労を要するものであることは明らかです。今回の授業モデルは小学校6年生を対象とした社会科のプロトコルでしたので、小または中学校でのそのような教科学習における可能性は非常に高いものがあると思いました。私として検討しないといけない課題は、授業分析は技能を育成する教科(体育、美術、音楽、技家、英語)において、どのような役割を果たすのかという点です。児童生徒の語りと技能は一致しない、一時間で生徒の技能は変容しない、というのが主たる構成要素です。では、そのような教科の研究授業では何が検討されるのか、授業技術だけの話になれば、そんな面白くないことはありません。そこに子どもとの対話があり、教師が生徒の考え(?)、技能を高めようとし向けていこうとする方向性についての検討をするのでしょうか。正しい方向なのかどうか(何をもって正しい方向と言えるのか?、何をすることが悪い方向となりえるのか?)って、どうやって判断するのでしょうか。英語教育について言うと、今までに前例がないことをどうして今からはこうすべきだって判断できるのでしょうか。あくまでそれは仮説であって、それが正しいという保証は全くありません。ではその仮説はどこからでてくるべきなのかと言われれば、そのリソースとして授業分析が必要になってくるべきでしょう。やはり仮説は生徒の姿を持って立てられるべきだと思います。

 

英語教育も当然ながらに含めた、教育的な考え、つまりは教育思想は誰しもが抱えているもの、抱えるべきもので、教育者であればより「確からしい」教育思想を備えておくべきだと思いますし、そのブラッシュアップのために日々研鑽すべきでしょう。ただ、教育思想はあくまで「考え」であって、それが正しいということはないですよね。教育思想は、「自分の」考えかもしれませんし、「誰かの考えが受け売り」になっている状態のものかもしれません。ということはつまりそれって誰しもができること、です。私が教育思想について問われるべきことは、自分が持つ「思想」(なるもの)を、本気で、具体化し、対立する思想を明らかにしながら、子どもに(そして教育社会に)還元していくことであると考えます。

 

教育哲学について学びを深めていくと、それはさらに深いところに存在するものであることが明らかになってきます。私の「教育哲学」などとつい言ってしまうことがありますが、それはいささか勘違いも甚だしいものだと反省します。宇佐美寛は(著書を読むだけで背筋が凍りつきます)教育哲学(教育思想)について次のように述べています。

 

 

教育哲学

教育哲学

 

 

教育思想は、単なる祖述・紹介という受け売りである場合も、自分の作った思想である場合も教育哲学ではない。

 

哲学の生命は、疑い・批判である。自分自身の思考に対してでさえ、疑い・批判を加えるべきなのである。例えば、自ら次のように考えるのである。「待てよ。」「いや、これは間違っているかも知れない。」「ここから先の論理は不確実なすいろんになる。それをそのまま、わかっているかのように述べるのは、はったりだ。」

 

哲学とは、学問的方法なのである。自・他の思想に対する疑い・批判の方法が哲学なのである。

 

これだけでも、日ごろ考えていることに身につまされるのと同時に、哲学する思考がいかに大切なのかを感じます。宇佐美の著書にあるように、いかに優れたように見える教育思想も、ただ単にそれを受け売るのではなく、その中にある、いわゆるミッシングリンクを見つけること、思想を疑ってみること、建設的に批判を加えること、あらたな発見を提示すること、を継続していくことが教育における実践では求められるのだと痛感しています。

 

教育思想は教育哲学へとメタ的に検討していくプロセスとしての授業分析という位置づけは可能なのではないかと考えます。それは授業分析が辿ろうとしているプロシージャーから明らかになるもの(授業観察を通した視覚的感覚的でないもの)は、教育思想に対する基礎的な研究に位置付き、高次の教育思想、教育哲学へとプロセスされるものと考えるからです。

 

英語における教育思想はさまざまに多様化しておりchaosな状況にありますが、その中で真に正しいことを探求する姿勢こそ(思想の具体化に加えて)、教師として求められるのかもしれません。

教養であるとか創造性であるとか

あけましておめでとうございます。

2020年になり、今年は何かと忙しくなるなーと感じており、冬休みは子どもとしっかり遊ぶことにしました。

その中で、すきま時間を何とか読書なり、書き物なりに費やしてきたのですが、今冬の学びはいささかgeneralなものが多かったせいか、専門的な知識が増えたことよりも、自分の領域を他分野から批判的に概観することができました。

それって本当に必要なことだなー、なんて感じます。

ライトなところでは、村上春樹のエッセイ本を、見返してみました。村上春樹のエッセイはとても読みやすいし、あっという間にかなりのところまで読めます。

 いつも彼の作品は目につくところにあるのですが、平日などに読むのは少しはばかられますが、まとまった時間の中で、今日はすることないなー、みたいな時に最適です。子どもにまとわりつかれながらも(笑)、楽しく読破しました。

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1999/03/02
  • メディア: 文庫
 

 

 

辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/05/30
  • メディア: 文庫
 

村上春樹のエッセイを読んでいて一番共感(というと偉そうだけど、そうなのか、も含む)するのは、物事の見方・考え方の多面性というところにあるような気がします。日頃の生活場面でその場の状況における考え方を垣間見ることができ、彼はそのように考えているのか、という視点を与えてくれます。それというのは、自分のものと比較した時に新たな見方・考え方となり、それは私の為人となるべきものだと思います(もちろんそうしたからといって村上春樹になれる、なりたいわけではない、上から目線ではもちろんなくて)。 

 

私は、教員としても当然なのですが、これからの社会で必要なものは真に教養を持つこと(教養についての定義もこれまでと同様であってはならないと思います)、そしてしっかり現実を見極めて、自身の考えや協議をしながらその場に応じた適切解を一つないしは複数提示していくことにある、という方向性で考えているところです。

そんな中で、私としては注目すべきところは「哲学」分野にあると思っています。下の本の中にある、「現実の仕組みを把握するデザイン感覚」中島隆博です。

 

東大エグゼクティブ・マネジメント 課題設定の思考力

東大エグゼクティブ・マネジメント 課題設定の思考力

 

 …たとえば中国思想の場合に、まずは古代から歴史をたどって教えてみようとなると、これは退屈ですよね。自分がそのように中国哲学史を教えるという姿をイメージしただけで退屈です。そうではなくて、かつて歴史上で生き生きとした議論が行われていたわけですから、そうした論争的状況を正確につかんで、現代からみるとどういう意味があるのか、それはやはり考えないと駄目です。あなたたちがそういう状況になったら問いをどう引き受けますか。そういう思考を積んでいくプラクシス「実践、実行」が必要なんですね。

…ものを考えるとはこういうことか、ものを理解して、問いを立てるとはこういうことかとわかるはずです。中高生というのは、そういうことを知りたいわけですよ。別に倫理の教科書に書いてある内容を覚えて、穴埋めしなさい、括弧のなかから選びなさいといったことをやりたいわけではない。もっと自分たちに深く関わっている問題があって、しかも将来に自分たちでそれらを決定しなければならない局面が来るとわかっている。その準備のために、自分たちで考える練習をしてもらうことが重要なのです。

 ただ、そのためには、いまの授業で想定されている「教養」を超えたペースペクティブをもった教師が必要です。…たとえばスポーツを教えるときに、下手な指導者は自分の理解しているものを無理やり教えて、あとは一生懸命頑張ろうと言います。そうではなくて、そのスポーツの特徴をどのように見せるのかが重要で、そこにはどういう段階があるのか、そして、いまあなたはここだと教える。あなたはこういう動きをしているが、でも、こういう別の動き方の可能性が実はあって、こういうふうに具体的にできるんだとイメージを与える。こうしたことがものすごく大事ですね。

 

この辺りが英語教育で具体化されることが重要で、小学校や高校でのつながりも意識しながら、中学校でできることの最大化を図れないかと思います。

授業の展開なども、student-centeredなのはそうなのですが、教師の力量として生徒の反応を想定をしておくこと、生徒の力量をその場でどのように看取るか、三年間の育成・習得の見通し、…など、教師の「教養」を持っておくこと、大切ですね。

 

私自身、SLAに関する諸研究から実践を概観、具体化することに傾倒してきて、今でもそれは変わりない事実です。一方で、いわゆる教養であるとか、創造性であるとかを養うのに、狭い範囲だけで考えていても、全く広がりがないと感じます。実践を創造するにも、一般教養としてのより広い知識を持つこと、それらを自分の範囲に援用していくこと、援用していくにあたり問いを立てながら噛み砕いていくことで、「生徒のための授業」がより具体化されると思います。私がここ数年で大きく変化したのは、英語教育に対するモノの見方・考え方という視点、生徒の変容を見とる視野、そして実践に対する創造性ではないかと思っています。まだまだ足りない視点ばかりですが、今年は「深い学び」について検討しながら、楽しく、実りのあるteaching and learningを実現したいと思います。

授業分析を通しての子どもの思考の究明 杉本(2013)

言語を処理していくにあたり、子どもがどのように思考するのかを考えることやその結果としてどのようなアウトプットがなされるのかを検討することは必要なことと言える。一方で、子どもが学ぶ知識が明示的であると同時に、(特に)暗示的でもあることを考えると、なんだかわからないけど、英語が使えるようになってた、ということもある。そこには、思考を巡らすよりも、体得していることの方が多いのかな。

いずれにしても、教師の持つ英語習得と子どもの習得状況は当然異なるわけで、そのずれ、いわゆるnoticingを上手く活用することを通した思考、もしくはアウトプットの変容について考えることができるのかな。

 

授業分析を通しての子どもの思考の究明 杉本憲子

第1節 子どもの思考の動きの追及と授業分析

1 教育学の基礎研究としての授業分析

授業分析:子どもや教師の発言記録を基礎に、授業の中での身体的な活動や、

子どものノート・作文や作品なども含めた授業の記録にもとづいて、授業に関わる諸問題を究明すること(日比・的場 1999)

 

ー授業の適否を判断する基準を外からもって来て分析をし、指導改善の手立てを検討するという方向ではなく、実践の中から学級集団あるいは個々の子供の発展の様相を探り、それによって授業の適否を判断する基準そのものを追及するという方向で理論と実践との結びつき

が求められている。

ー重松:1)授業分析は「授業改善に貢献すべき教育理論そのものを強靭な真に実践を指導する力を持ったものにしようとする狙いを持つ」

2)現場の教育研究者は、「自分自身の事実をとらえている立場を反省しながら、その事実についての論理的な考察を試み、むしろ教育学の基礎を提供するという姿勢を捉えなければならない」

 

授業分析の課題(日比・重松 1978)

1)授業分析の実践的課題:よい授業の実現

2)授業分析に固有の課題:きょうの授業を通してあすの子どもの可能性を具体的に構築すること

3)授業分析の理論的課題:子どもの可能性を表現する叙述形式の究明

ー授業分析はよい授業の実現やあすの子どもの可能性の追及という実践的側面の課題のみならず、その根底に子どもの可能性をどのようにとらえ表現するかという理論的課題を有するものである。

 

2 授業分析の中心的課題としての子どもの思考の動きの究明

ー子どもの思考に働きかけそれを発展させる点に授業のねらいをとらえるとき、それがいかに実現したかを検討するには、実際の授業の場において、子どもたち(または個々の子ども)の思考がどのように動き変容していったのか、その事実を丁寧にとらえていく必要がある。

 

3 分析視点にみる子どもの思考をとらえる着眼点

授業分析の視点(日比・重松 1978)

1)基本的視点:①ずれ:教師の意図と子どもの動きとのずれ

②変化:授業の転換点、分節の変わり目

③関連:子どもたちの間の考えのつながり

2)総合的視点:①雰囲気 ②リズム ③間

ーずれ、つまずき、考えの対立やつながり等は、教師と子どもとの関係が集中的に立ち表れる点としてとらえられ、教師の意図とどのようにずれが生じたか、あるいは子どもの考えが他の子どもの考えとどのようにつながったり、対立したりしているかなどを丁寧に探っていくことが求められる。

ー授業分析はずれやつまずき、考えの相違やつながりとその変容等に着目して、子どもの思考を相互関連(関係的把握・空間的把握)とその動的変容(動的把握・時間的把握)の側面から立体的にとらえようとするものである。

ー分析の視点が分析者の立場や方法を集中的に示しているものだとすれば、こうした分析視点から授業を観察・分析することは、結局求める授業像の理論や仮説から授業をとらえることになり、本来授業分析という手法を通して求められたはずのこと、つまり授業の事実から教育理論を構築していくことが実現され得ないのではないか

→重松(1961):「仮説自身を検討する立場を堅持することが大切」と述べているように、

視点は仮説的に設定されるものであり、授業分析を通してとらえ直していく姿勢が求められる。

 

第2節 授業におけるずれへの着目

1 授業におけるずれとその諸相

授業におけるずれの諸相を考えてみると、

1)まず教師と子どもとの間、すなわち教師の立てた目標や計画と実際の授業での子どもの反応や理解とのずれ

2)子ども相互の間に成立するずれ

3)この認識におけるこれまでの理解とのずれ

このように教師と子どもとが働きかけ合う授業という場は、ずれの動的な複合統一(上田 1973)としてとらえられる。

 

習得を教える教科(習熟でもなければ熟達でもない)である英語はこの辺りをいかに解釈し、具体化すべきなのか、本気で考えないと。授業分析の概要論を概観することを通して見えてきたものは多いな。

「博報堂デザインのブランディング」永井一史

今年も年末になり、2019年を回顧すると色んなことがありました。その中でいつもかなりの刺激を与えてくれる仕事(人たち)があり(い)ます。本校の卒業生であるとか、企業に勤めている方々です。

生徒が行うキャリア教育を進めるにあたっては、事前にどのように進めていくのかをある企業の代表と共に構想し、その内容をまとめまで具体化する、そしてそれらを生徒が訪問する企業にコンテンツとしてお願いするようにしています。私は今現在中学校1年生の担当で、職場訪問は来年度なのですが、今年は卒業生講話、社会人講話をそれぞれ1学期、2学期に実施してきました。

今回の打ち合わせの中でも感じてきたことは、

・企業のatmosphereは教育において援用すべきところが多い!

・教育も変化を受け入れる体制をさらに構築しないといけないのでは?

・自社を高めていこうとする姿勢から学べることは?

ー最先端をいく企業はどのように事を進めているのか

ー企業の求める人材像を学校では育成できているか

ー育成のために中学校でできることは何か

ー生徒の発想を受け入れようとする土壌を用意しているか

ー教育はブランディングをどのように取り入れるべきか

ブランディング」という観点は教科の中でも協議をしています。教科として取り組むことをいかに確立させていくか、そのあり方には苦心しつつもその過程を楽しんでいます。その参考として「博報堂デザインのブランディング」を挙げます。

 

博報堂デザインのブランディング: 思考のデザインとカタチのデザイン
 

 

博報堂デザインのブランディング」永井一史

1.私のブランディング

ブランディングとは短期的な視点ではなく、将来までずっと残るもの、いわば未来の価値をデザインしていくことにほかならない。

 

ブランドとは企業や商品が持っている「らしさ」であり、独自性を持った価値だ。それを磨き上げ高めていくことによって、ブランドの名前を聞いたとき、誰もが頭に思い浮かべる共通のイメージがつくられていく。他とは違う明確な個性があるからこそ、人に選ばれ、愛される存在になる。

 

ブランドは「思い」がすべて

ブランドの価値ー「見える部分」「見えない部分」

ブランドの本質は、実は見えない部分にあるー見えない部分にある

:一番大切なもの〜「思い」

「思い」とは、ブランドの送り手が持つビジョン、魂、理念。こんなブランドでありたいという理想像。使う人に何をもたらしたいかという意思。言うなれば何よりも根本的で本質的な、「その企業や商品が社会に存在する理由」

ブランディング:そのブランドだけの「思い」を見つけ出し、それを具体的で目に見える「カタチ」にして世の中に届け、ブランドと人々の関係性をつくっていく行為

ブランドに一番大切なものは、「思い」

ブランディングとは、「思い」を「カタチ」にすること

 

ブランドは双方向の関係性

ブランディングは、送り手側の独善的な押しつけでは、受け手にとっての価値にはならない。どんなにいいものをつくったつもりでも、受け手が求めていないもの、その人の暮らしに必要がないものでは意味がない。

 

ブランディングは、ニュートラルに

デザイナーは送り手側の立場に身を置きながら、同時に受けて側の立場でも考える。送り手側だけにも属さないし、受け手側だけにも偏らない。一人の中に、二つの立場を持っているのがデザイナーなのだ。

 

ブランディングの二つのフェーズ

〜思考のデザインとカタチのデザイン〜

1)ブランドの「思い」を見つけ出して規定する「思考のデザイン」

2)思いを具体的なアウトプットにして世の中に届けていく「カタチのデザイン」

ーデザイン:目に見えるカタチの背景にある構想そのもの(なぜそういうカタチになるのかという理由)を考えること

「思考のデザイン」:双方向の関係性の中からブランドの「思い」を導き出し、価値として規定するまでの道筋

ー思考のデザイン=【インプット】と【プランニング】

ーカタチのデザイン=【アウトプット】

 

2.思考のデザイン

あらゆる情報をインプットする

ー最初の時点で、どれだけ視野を広げてブランドに関する多くのことを知ることができるかが、ブランディングの成否を決める。

ー立体的にブランドの全体像を掴んでいく方法

1)歴史 2)機能 3)文化 4)社会 5)関係

 

思いを「点」で規定する

ー思考のデザインは、ブランドの「思い」を見つけていくプロセスだ。これだという「思い」を見つけ出すことができたら、最終的には、誰もが共有できるように言語化して規定する。いわゆるブランドコンセプトと考えてもらってもいいが、重要なのは「点」で規定する意識だ。

 なぜ「点」という言い方をするかというと、規定した価値の“精度”がブランドの求心力に大きく影響するからだ。芯を捉えていないと、単なるお題目になってしまう。

 …その一点は「歴史」「機能」「文化」「社会」「関係」の関係性を積み重ねた総和が最大化された点でもある。

 

3.カタチのデザイン

伝えるにはジャンプが必要

ー思考をカタチに転換していく上で気をつけたいのは、「正しいだけでは人の気持ちは動かない」ということだ。

ー概念である思考のデザインと、

実際に世の中に生み出され存在していくカタチとの間には、どうしてもロジックだけでは埋まらないギャップがある。そのギャップを飛び越えていけるのはクリエイションの力だ。「このブランドが世の中と接したときに、人がどういう気持ちになるか、社会がどんな反応をするか」「どんなカタチであれば、人の気持ちは動くのか」、いろいろな生活者をイメージし、可能な限り想像を広げてみる。

 価値規定をそのままトレースするのではなく、スプリングボードにしてジャンプアップしていく。そのジャンプアップがあって、はじめてブランドの思いに命が吹き込まれ、うけてにとっての価値となって伝わっていくのだと思う。

ー五年、十年の耐用年数で考える

 最初に正しい場所に植えられた種は、自然の諸条件の中で、自力で真っすぐ立ち上がり、年月を経て、人や動物に憩いをもたらす大樹に育っていくだろう。

 「今」だけではなく、「未来」の姿を想像し、カタチにしていく。

 

教育にも援用可能な「ブランディング」について今よりもさらに深めていきながら、カリキュラムデザインができたらと思います。最近カリキュラムマネジメントってよく聞くんだけど、それってデザインがしっかりできてからの話じゃないかって思うんだけどね。

柴田(2013)のまとめ

英語科における授業分析が構築されると実践としてはさらに進展すると思わずにはいられない。

ということで、またも柴田論文のまとめ。

授業分析による理論構築と授業過程の可視化手法

柴田好章(2013)『授業研究と授業の創造』的場正美・柴田好章(2013

 

第1節 授業分析の学術的価値

授業分析が担っている役割:実践や研究の積み重ねを、可能にすること(教育の科学化)

重松が提唱した授業分析の学術的価値:授業分析は、現場との協同的な営みであり、授業改善や教師の成長に資するという実践的価値を有しているが、それに留まることなく、実践を対象とした研究を教育学の基礎研究に位置付けようとした。

授業分析とは、教育の現場で行う学問的実践である。教室という教育事象が生起している場において、教育学(特に教育方法学)の概念を、発見ないしは再発見する学術的な営みである。教育方法学は、教育方法の選択や開発の理論的根拠を提供する学問である。実践に耐えうるりろん(すなわち現実と遊離しない理論)を構築することが、授業分析の学術的な使命である。

 

第2節 理論構築のための授業分析の方法論

1 授業分析における理論と実践の関係

・授業分析がカバーするのは、主として実践の観察・記録に基づく記述的研究であり、事実に基づく経験科学である。これは「どうあるか?」の問いに導かれている。事象の記述においては個別性や具体性が重視され、分析においては明確性が重視される。同時に授業分析は、授業の理論的モデルの構成を指向しており、経験科学から規範科学へ至る道筋も含まれる。規範的な研究は、「どうあるはずか?」の問いに導かれている。普遍性や一般性をも指向している。個々の授業の詳細な分析により、個別的で具体的な分析の知見がもたらされ、その特殊性の中から新たな実践を導く可能性が明らかになり、普遍化、一般化がもたらされる。そしてこの成果は、処方的研究としての方法学にもたらされることにより、デザイン(設計)を通して現実の教育実践に寄与することになる。

・実践を真に指導する理論を構築することが授業分析の使命であると述べたが、それは記述的研究規範的研究処方的研究というプロセスを示している。

・授業分析が構築すべき理論が実践の拠り所となるためには、実践に対する耐性や、実践を切り開く先導性を有する必要がある。授業分析において、実践を指導する理論を構築するにあたり、実践との対応関係について留意すべき点が3つある。

1)事実の不確定性:実践に含まれる事実をどのように確定するか。

2)理論の有効範囲の限定性:実践から構築された理論によって、実践のすべてを説明し予測しつくすことはできない。

3)実践と理論の動的関係性:実践と理論の関係は動的であり、互いに影響を与えながら変容する性質を有している。

 

2 既成の仮説の排除を原理とする授業分析

授業分析が実践の理論化に貢献する道筋

あくまでも、事象に含まれる諸事実をできる限り整合的にとらえるような理論を生み出すことが求められる

・子どもが学んでいる事実(既成の仮説の排除)

・個々の研究は、未知なるものが既知なるものを目指して、より確からしいという実感に導かれて行われるが、何をもって未知が既知に変わったと判断しうるのか、それを保証する外在的な基準は不在である。事象に内在する諸事実、それは時に互いに矛盾することもあり得るようなものであるが、これらをできるだけ整合的に説明しようという実践的態度を頼りにせざるを得ない。これは、人間の主観にもとづく実践であり、実感、すなわり分析者の感覚や身体を要する。

・授業分析は、夜明けのように、徐々に明るくなっていく過程として、研究の累積をたとえることができる。ABCを説明することによって、ABも、より確からしくなっていく相互規定的な過程である。

 

3 相互規定性にもとづく授業諸要因の関連構造の解明

授業諸要因:授業の成立に内在・介在しているあらゆることがら

関連構造の解明:要因となる《こと》と《こと》との相互依存的な関連から全体を構造的にとらえようとするもの

ー具体的なものも、抽象的なものも、観察可能なものも、構成されるものも、それらのレベルの違いは意識されつつも、あらゆることがらが要因として扱われる。すなわち、要因とは他を成り立たせる要因であり、他を成り立たせることによって、その要因も成り立っている。こうした相互規定的な関連においてのみ、要因の成立が措定されるものであり、単独でその存在は保証されない。

ー相互規定性は、《事実》と、そこから分析者が構成する《概念》の間にもおこる。

 

4 子どもの具体的事実や逐語記録を重視する授業分析

ー授業分析は、単に、表面的にとらえられる事実だけではなく、個々の子どもの思考過程にまで遡って事実をとらえようとする点に特徴がある。

ー《あるがまま》とは、単に子どもを子細に観察するということにとどまらない。現場に立ち会おうとする我々がすべきことは、子どもを外側から見るだけでは十分でない。むしろ、子どもの内側から外側の世界がどう見えているかが重要である。子どもがどういう空間・時間を生きているのかを、共感的に理解しようとすることである。身体による共感や、想像による洞察の働きを要する。

ー子どもが生きている世界を、動的にとらえることでもある。常に変化する主体である子供を、まさに《変化している》ものとしてとらえることが、事実にもとづく授業分析において、最もとらえたい事実である。変化そのものをとらえるためには、具体的で個別的で一回性の授業の世界を、子どもがどのように生きているかをとらえねばならない。いわば、一瞬一瞬がみせる不連続性を、連続性の中に見出そうとするのである。これには、やはり、身体を媒介とした、相手の《生》の理解を必要とする。

 

第3節 授業分析による授業理論の構築

1 授業分析の知見によって導かれた理論的な成果

ー(表3)協同的・問題解決的学習における子ども同士の相互作用による学びの発展過程

1)問題の切実性・真正性

2)問題の共有可能性

3)問題の展開・変容

4)問題の解決(未解決)

5)問題の本質への遡及

 

2 子ども同士の相互作用による学びの発展過程

1)問題の切実性・真正性

「〈問い〉が誰によってのものか?」

ーその〈問い〉が、子どもが正に問いたい問いになっているかどうかが重要である。

2)問題の共有可能性

問題の切実性・真正性

ー「〈問い〉が誰にとってのものか?」もちろん、子ども自身の〈問い〉になることが、協同的・問題解決的な学習の成立には欠かせない。

ーその〈問い〉が、子どもが正に問いたい問いになっているのかどうかが重要である

問題の共有可能性

ー授業において、子ども同士がかかわり合うためには、ある子どもにとって切実な問題が、他の子どもにとっての関心になる必要がある。

ーズレやユラギを含みつつ、子ども同士が関わり合えるためには、「私の問題とあなたの問題の関わり」が必要となる。

問題の展開・変容

ー問題の追及過程は、教師が想定した計画通りに進行するとは限らないし、大枠は教師の想定の範囲の中で授業が進行したとしても、子どもたちの相互作用が活発になるほど、多様な展開過程を見せる。追及している問題が、変容していくこともありえる。

展開過程のパターン

・前の授業場面での、主要な話題が、次にも引き継がれ、発展していく。

・前の授業場面では、少し言及された話題が、次の主要な話題へと発展していく。

・新たな話題が、ある子どもの思考や経験が、新たな話題として授業の場に持ちだされる。

・主要な話題が消滅する。

ー教室を自由な雰囲気かつ秩序のある空間としていくことが大切となる。

問題の解決(未解決)

ー一つの問題の解決は、新たな問題の芽生えにもなり、新たに解決したい問題が生まれることもありうる。その意味で、解決とは未解決でもある。

問題の本質への遡及

ー〈問い〉を〈問う〉とは、問題がどうして問題となるのか、本質に遡って考えようとする質の高い学びである

 

第4節 理論構築を可能にする為に必要な授業過程の可視化手法

1 授業分析における手法の重要性

ー部分と全体の関係をとらえたり、特徴を明確にとらえたりすることが難しい。そこで、記録から有用な情報を引き出すための分析手法が開発・適用されてきた。

 

2 質的な手法の例

分節わけ

発言の関連図

八田昭平による構造分析表

中村亨らによる発言表

中間項

ー記録(発言や作文)から直接抽出することが困難な要因(たとえば直観などの精神活動のレベルの要因)を顕在化させるために、記録と要因の間に中間項という記述形式を設定し、はつげん・作文を、内容を捨象しないように中間項に転換(再構成)している。

ー中間項を設定する意味は、一つには、発言を中間項へ転換することによって、児童の発言がどのような概念や構想の相互の関連として成立しているかをより明確にとらえることができることである。また、今までともすれば見落としていたことばも分析の対象とせざるを得なくなり、児童発言の具体的な事実に即した解釈が可能になることである。

 

3 量的な手法の例

語の出現頻度

柴田による語の出現頻度にもとづく分節構造図

 

4 可視化手法と今後の展望

ー教育実践の改善や創造のためには、学習の結果のみではなく授業過程を対象として、学習者間の相互作用の特徴や、学習者の発言や行動の背景を洞察することが必要である。

ーこうした教育専門職に必要とされる「授業洞察力」を、事実の認識、気付き、解釈、熟慮、価値付け、概念化、説明という一連の流れにおいて包括的にとらえ、その向上を図ることが求められる。

柴田(2007)における授業分析

所属している学会のSIGで非常に興味深いワークショップが開催されるというので、事前学習をしておくことにしました。

この柴田(2007)から見えてきた授業分析については、私としてもかなり考察を深めたい視点が多くあり、内からの理論的発信という視点は「たいへん」興味を惹かれております。英語教育における授業分析のあり方、そして英語教育の展望に思いを馳せながら有意義なクリスマスを過ごしているところ(笑)です。

 

教育学研究における知的生産としての授業分析の可能性

柴田好章(2007)

はじめに

…実践者と研究者が、現場の実践上の課題を共有し、こゆうの役割を保ちながら、協力してその解決にあたる。そこでは、理論知、形式知よりもむしろ、教師の実践知、暗黙知が重視される。実践知の意識化や再構成をもたらす機会としては、具体的な問題解決を志向した協同的なアクションリサーチが有効である。特に近年では、こうした実践の反省や創造における、実践者と研究者の協同が強調されるようになってきた。

稲垣・佐藤(1996)《反省的実践の授業研究》

「文脈に繊細な個別的な認識」

「教育的経験の実践的認識の形成」

「経験の意味と関係(因縁)の解明」

 

《実践への理論の注入》は、新たな実践のパースペクティブをもたらす機会という利点もあろうが、先に挙げた反省的実践家をはじめとして近年の教職の専門性をめぐる教育学の議論からみれば、克服すべき点が残されている。

《実践の共同開発》アプローチにおいて、現場の具体的な問題解決を志向した協同であっても、多くの場合、依然として、実践者と研究者の間に、本質的な非対称の関係性が潜んでおり、そのことが、真の共同を阻む。

※非対称の関係性:研究者が自らの使命とする、教育学研究の実践、すなわち教育理論の構築において、現場との協同を《必然とはしていない》ことである。

 

1.《授業研究》の逆概念としての《授業分析》

授業研究:なんらかの研究的意図をもって、授業を計画し、計画に基づき実施し、実施した結果を評価することを通して、授業の改善や教師の成長を期待する一蓮のプロセス。

授業研究における研究者の協同:授業研究は、授業の改善や教師の成長を促すための営みであり、その主体は実践者たる教師である。研究者が、これに協同して、参加することは有意義であるが、あくまでも授業研究を支える支援者である。支援には、授業の内容や方法に関する《実践的な知》を提供する場合と、研究方法に関する《方法的な知》を提供する場合がある。その比重によって、先に見たように、《実践への理論の注入》アプローチとなるか、《実践の共同開発》アプローチになるかが左右される。

先にも述べたように、実践者が主体者となるべき授業研究に研究者が協同するだけでは、真に互恵的な関係ではない。そこには、研究者(大学)と実践者(学校現場)の非対称な関係が潜んでいる。

 

授業分析:授業研究の事後の評価の段階において、教師の力量の形成に役立てたり、授業の改善の方向を見いだしたりすることができる。

 これら2つの効果に加えたもう1つの意義:未知を既知に変え、理論として構築していくこと。すなわち、教育学の理論構築である。どのように学びが生起しているかを、事実に即して具体的にかつ深く把握することによって、社会の共有財産として、教育実践に関する知を形成しうる。

授業分析の主たる分析の過程は、分析者による記録の《読み》である。授業記録を精読し、できるだけ恣意的な解釈に陥らないよう、事実と事実の関連性を慎重に考察し、整合的な解釈を作り上げる。

授業分析でもっとも強調されることは、授業の事実にもとづいて、「強靭な真に実践を指導する力を持った」教育理論を構築していくことである。したがって、所与の理論の裏付けとしての授業分析や、授業の適否を判定する基準を授業の外から持ち込むことは拒否される。また、表面的にとらえられる事実だけではなく、個々の子どもの思考過程にまで遡って事実をとらえようとする点に特徴がある。

具体的な子どもの学びのあり方をとおして、授業とは何か、学ぶとは何か、そして、それらの可能性はどこにあるかを、共有財産の学問知として生成することに、授業分析の意義がある。そしてそれはまた、教育学研究者に課せられる固有の役割に基づくものである。

こうして、学ぶ意味と、その可能性の具体的把握を通して、教室は、教育学的概念の発見、ないしは再発見される知的生産の現場となるのである。実験的な操作の対象としてではなく、あるがままの子どもの学びのあり方から、学ぶことの意味や可能性、ひいては授業の可能性を理論的に構築しようとするところに、教育学研究における授業分析の意義がある。

 

2.教育学的概念の発見・再発見の方法としての授業分析

授業分析に課せられる最も主要な第1の条件が、事実にもとづく理論構成がなされる点である。

デュルケームの「教育の科学」のように、思弁、規範によらない理論構築を目指している点で、客観性、実証性への指向性がみられる。

・具体的な考察の方法は、子どもの《生》を身体的かつ共感的に理解することを中心とするものであり、解釈学的人間科学との親和性も高い。

・質的な研究という点では、エスノメソドロジーとの親和性は高い。…しかし、エスノメソドロジーが、たとえば、直接に見えない関係性を浮かび上がらせることに関心の力点があるのに対して、授業分析は、学ぶこと自体を凝視した研究である。

 

3.授業分析がめざす理論構築

理論と実践の問題解決について:教育実践現場の問題解決には、大学などでけんきゅうされている教育、学習、発達、授業等に関する諸理論が直接的に処方箋を提供できるような構造にはない。問題解決の糸口は、授業の外側にある諸理論の中にあるのではない。解決の糸口となる「可能性の芽」は、すでにその事態の中に内包されているのである。授業の内側に潜んでいる可能性の芽を探し出し、そこに授業をとりまく様々なリソースをうまく結びつけていくことによって、解決が図られていくのである。そして、このリソースの一つとして「理論」が位置づけられている。

したがって、実践に耐えうるか、実践を切り開くかどうかは、専門家たる教師によって、参照に足りうるものかどうか、という意味で捉えるべきである。この参照可能性こそが、重松のいう指導であろう。教育実践の知の体系化は、教育学の学問的な発展のためだけではない。実践を語る《ことば》を社会的に共有していくためのものである。専門家として実践を協同で反省するための議論において、具体にもとづいて経験と観察を再構成する際に参照しうる理論を形成することも、今日の教育学に課せられた課題であると考える。

 

4.授業分析における教育の科学化

授業分析において、事実に基づく、とは:「すべての事実を斉合する(辻褄が合う)ような体制にくみ入れて説明しようというところに分析の基本的な態度」がある。

 

5.授業分析が求める理論

ここで、この授業分析が子どもの思考過程を研究対象としているのは、単なる偶然ではなく、必然である。これは、授業を構成する主たる3要素、教師・子ども・教材のうち、特に、子どもを焦点化しているというわけではない。ましてや、何らかの選好として子どもを、研究の中心においているのではない。

 教師の発問を検討するのにも、目標・価値・教育内容の具現である教材を検討するのにも、子どもの思考の検討を経ずしては成立しないのである。

子どもの思考過程を解明しようとすること、は、単に子どもを子細に観察するということにはとどまらない。子どもを見ることは、授業を行う上での常識の範疇であるが、視線の方向は、常に、教えるものから学ぶものへと注がれている。

現場に立ち会おうとする我々がすべきことは、子どもがどういう空間・時間を生きているのかを、共感的に理解しようとすることである。理解しようとする自分が、自身の身体を媒介として、理解しようとする相手の生に限りなくシンクロナイズしていくことを通して、ようやくながら、少しずつ感覚として伝わってくるものがある。身体による共感や、想像による洞察の働きを要する。

常に変化する主体である子どもを、またに《変化している》ものとして捉えることが、事実にもとづく授業分析において、最もとらえたい事実である。一般的には変化は、2時点間の比較によって把握される。…いわば、一瞬一瞬がみせる不連続性を、連続性の中に見出そうとするのである。これには、やはり、身体を媒介とした、相手の《生》の理解を必要とする。この、身体的理解を通した動的な把握が、理論構築をめざす授業分析のための第5の条件である。

 

6.授業諸要因の関連構造の研究方法論

1)事実にもとづく理論構成(先行する仮説・理論の排除、事実の整合的解釈)

2)教育実践からの参照可能性のある理論構成(耐性、先導性、共有可能性)

3)可塑性のある理論構成(相互規程性、事実の優先的地位)

4)子どもの思考過程の解明(学習の現場への遡及)

5)動的な把握(身体的理解)

授業諸要因の関連構造の研究

授業諸要因:子どもや教師の個々の言動やそれにかかわる個々の物理的な事物のレベルでもとらえることができるし、またそれら諸要因のあるまとまりの示す精神活動[例:想起、推論、直感]のレベルから、自信といった観察による抽出のより困難な要因のレベルまで、それら諸レベルの関係を視野に置いて授業諸要因の関連構造を究明する必要がある。

まず、この研究では、固有名詞の子どもの単元を通した一連の具体的な発言や活動を分析し、思考過程を明らかにしている。そして、その事例における授業諸要因の関連構造が、直感、自信などの教育学的な概念を用いて明らかにされている。こうして、観察・記録された事実から分析が進められ、内在・関与していると想定される精神活動のレベルの要因が加えられて、整合的な解釈がなされ、一定程度の理論的な構造が析出される。また、授業に関する諸理論からも、授業諸要因の抽出とその関連構造が析出されている。そして、既存の理論から導き出される構造と、さきに授業分析によって明らかにされた授業諸要因の関連構造とを照合することによって、より整合性のある理論的構造化が行われている。

《実験》という行為と《検証》という認識の作用について:実験によって何らかの検証が得られるとすると、検証の成立を実験が支えているということができる。と同時に、それが実験であるということは、検証の成立が支えている。

相互規定性は、概念間のみではない。優先的位置を与えた《事実》と、そこから分析者が構成する概念の間にもおこる。生きた子どもの世界の中に、分析者が実験という概念を見出すのは、事実を説明するに足る実験という概念を有しているからである。つまり概念が、無限の解釈の可能性がある生の世界から、その(実験とよばれるに相当する)事実を浮かび上がらせている。しかし、相互規定的というのは、概念が固定的で不変的な定義を有していて、一回一回の事象は、その定義に当てはまるかどうかを、概念の側にある門番によって判断されるのではない。概念が事実を説明することによって、逆に説明された事実からその概念が照射される。分析者が、無限の可能性の中から、あえて実験という概念をその世界に見出すのは、実験という概念の側の力のみによるのではない。分析者の力によって、実験とよばれるに相当する事実が、価値あるものとして選び取られたのである。こうして、実験という概念は、再び現実の世界の豊かな《生》によって意味づけられる。これが、現場における教育学的概念の発見あるいは再発見としての授業分析である。

 

これだけでも理解をするには時間がかかりますが、さらに理念的な理解を深め、実質的に功を奏する授業分析ができるようにSIGではしっかり学びたいと思います。

 

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英語教員のための授業活動とその分析

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 こりゃ冬休みは忙しくなりそうだ。

Second Language Knowledge (Loewen, 2015)

第二章を通して、第二言語習得で培う知識、そしてそれらをどのように発達させていくかについて整理しました。それって現場では当然のこと、という内容のところはあるのですが、自分が語ろうとしていることを理論ベースで語ることができるようにすることは論理的な思考を養う上では非常に大切なことかと思いますし、他者意識も生まれることと思います。何より意識上に顕在化することでincidentalな指導を避けることにつながるものと感じています。

The Nature of Second Language Knowledge(p18~)

Canale and Swain(1980);communicative competence

1)Linguistic competence, which entails knowledge of the L2 morphosyntax, lexis, and phonology.

2)Sociolinguistic competence, which consists of learner’s ability to use the language appropriately in various social contexts.

3)Discourse competence, which is comprised of learner’s knowledge of how to produce coherent and cohesive written and oral language.

4)Strategic competence, which consists of learners’ ability to deal with communication difficulties.

 

Learners’ L2 cognitive linguistic systems

For language, declarative memory consists of the knowledge that learners are aware of and can describe; in contrast, non-declarative memory is the knowledge that learners use unconsciously when they are communicating in the language. (explicit/implicit knowledge, declarative/procedural knowledge)(p20)

 

L2 speakers may have considerable explicit L2 knowledge without corresponding levels of implicit knowledge. Moreover, instructed L2 learners often have higher levels of explicit and metalinguistic knowledge than do L1 speakers.(Alderson&Hudson, 2013)(p21)

In terms of cognitive processing, learners need to use attentional resources to retrieve explicit knowledge from memory, with the consequence that using explicit knowledge is cognitively effortful, and the time taken to access explicit knowledge is such that it does not allow for quick and uninterrupted language production(R.Ellis, 2009). By contrast, learners can access implicit knowledge quickly and unconsciously, allowing it to be used for unplanned language production. Although it is argued that implicit knowledge is the primary type of knowledge necessary for spontaneous communication(Ur, 2011), it is also acknowledged that language production typically utilizes a combination of implicit and explicit knowledge(Bialystok, 1982; R. Ellis, 2009).(p21)

 

Skill Acquisition Theory, a general psychological theory of learning, is another theory that deals with the mental representations of knowledge(DeKeyser, 2007c; Segalowitz, 2003).(p21)

 

...one difference between the constructs of explicit and implicit knowledge on the other hand, and declarative and procedural knowledge on the other pertains to the relationship that is proposed to exist between the two respective types of knowledge. Explicit and implicit knowledge are often viewed as modular, meaning that they are stored in two different places in the brain and do not intermingle(R. Ellis, 2009). In contrast, declarative knowledge being able to be proceduralized or automatized through practice(DeKeyser, 2007c).

...grammar and grammatical rules: rule-learning

...vocabulary: idem-learning

Both rule-learning and item-learning can result in explicit knowledge that learners are consciously aware of and can verbalize. It is also possible for both types of learning to result in implicit and procedural knowledge that individuals can draw on when communicating without consciously thinking about that knowledge.(p22)

Vocabulary acquisition relies heavily on item-learning as learners are involved in making explicit form-meaning connections between the meaning of the word and its phonological or orthographic form. Thus, much knowledge of vocabulary may be considered to be explicit(Sonbul & Schmitt, 2012).

There are also aspects of vocabulary knowledge that may be implicit. For example, knowledge of the contexts in which words are likely to occur may be implicit.(p23)

 

The Acquisition of L2 Knowledge(p24~)

...implicit learning, which occurs without intention or awareness, results in implicit knowledge, while in contrast, explicit learning, which is generally intentional and overt, results in explicit knowledge(Krashen, 2003; Macaro&Masterman, 2006;Rebuschat, 2013).(p24)

 

However, a problem arises when teachers and learners assume that explicit knowledge is going to allow them to use the L2 easily for communication.

 

As has been discussed, the ability to produce language relatively easily for communicative purposes draws heavily on implicit knowledge.

 

Implicit knowledge builds up gradually as learners’ cognitive systems register the patterns that are present in the input.

 

...the development of implicit knowledge takes large amount of practice(DeKeyser, 2007b), and providing learners with numerous opportunities to practice using the L2 can be difficult, particularly with large classes and a full curriculum.(p25)

 

Another problem with the development of implicit knowledge is that learners might not feel as though they are learning anything because they cannot consciously verbalize what they have learned(Gatbonton&Segalowitz, 2005).

Learners need to demonstrate the ability to produce language relatively spontaneously in a context that focuses primarily on the meaning of the language and not the grammatical rules, something that is again challenging to make happen in many instructional contexts.

Because of these issues, it is possible that L2 learners might be better served by a combination of implicit and explicit instruction(p26).

...The implication is that the teaching of explicit language rules will not, by itself, result in students who are able to communicate easily or well in the language. If a primary goal of L2 instruction remains the development of implicit knowledge in order for learners to be able to use the L2 fluently in spontaneous communication, then it is incumbent upon ISLA researchers to consider how best to achieve that goal.(p26)

 

Interface hypothesis

1)noninterface

2)weak interface

3)strong interface

 

The Measurement of L2 Knowledge

Empirical Evidence

The Relationship between Instruction and Knowledge

—-Implicit knowledge resulting from explicit instruction(p32)

Because explicit instruction is easier to provide in the classroom than implicit instruction, the ideal situation would be if explicit instruction was effective for the acquisition of both explicit and implicit L2 knowledge.

Spada and Tomita(2010)○

Sonbul and Shimitt(2012)×

Ellis, Loewen, and Erlam(2006)

-provided either explicit and implicit corrective feedback on learners’ incorrect use of past tense during two 30-minute communicative tasks.

—-Oral imitation test, in which learners heard both grammatical and ungrammatical English sentences and had to repeat the sentences in correct English. ...implicit knowledge

—-untimed grammaticality judgement test and a metalinguistic knowledge test ...explicit knowledge

RESULTS

Explicit corrective feedback led to gains in accuracy scores on measures of both implicit and explicit knowledge on delayed post tests.

—-explicit instruction could result in the development of implicit knowledge.(p33)

 

—-Implicit knowledge resulting from implicit instruction

Rebuschat and WIlliams(2012)...some learners were able to use the syntax rules to make accurate grammaticality judgements about sentences that had not been included in the treatment sessions.

...implicit learning may be possible for adult L2 learners; however, such learning may need to be accompanied by conscious knowledge.

Li(2010)...although explicit feedback was found to be more beneficial in the short term, implicit feedback was more effective long term. Li suggests that these different effects for the two types of feedback may be the result of implicit feedback contributing to implicit knowledge, which takes longer to develop but is more durable. Thus, the effects of implicit instruction would not necessarily be seen immediately after its provision.

...Explicit instruction may benefit the development  of both types of knowledge, while implicit instruction also appears to be effective.(p34)